文明と奴隷(寄稿)

この記事は CaibeR(@CaiberMAKISE)さんによる寄稿記事です。
1本目: 言語創作と創作世界
2本目: 錬金術を考える


皆さまお久しぶりです、CaibeRです。
今回もまた場所をお借りして、創作のネタになるような知識をお伝えできたらと思います。

今回のテーマは「奴隷」です。
ファンタジーな創作世界であれば目にする事もあるワードですが、その形態は時代によって少なからず異なります。
当然ながら現代では容認されるものではありませんが、一つテーマとして取り上げてみましょう。

この文章中に書かれる内容は数ある説、解釈の一つです。
いくつかの時代、いくつかの地域について取り扱いますが、これはごく一部です。興味がありましたらご自身でも調べてみてください。違った説を見つけられるかもしれません。
提供した話題が、皆さまの創作の助けになれば幸いです。

そもそも奴隷って?

奴隷、という言葉の意味は誰もが思い浮かべることが出来るかと思います。
では説明してください、と言われると思ったように言葉にならないのもまた事実ではないでしょうか?
ここでは簡潔に、Wikipediaの概説から引用しましょう。

『奴隷(どれい)とは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。』

奴隷 – Wikipedia

実は奴隷の形式は時代・地域によってさまざまで、一言で言い切ることは難しいものです。しかし、大きな共通点があります。
アリストテレスの言葉が最も分かりやすいでしょう。彼は「生命ある道具」という表現をしました。
少なくない時代・地域ではこの生きている道具が、社会的に容認され、あるいは一般的に存在しています。
人権思想の発展が始まるのはおよそ17世紀後半(権利の章典・市民政府二論)からであり、仕方のないことではありますが。

古代の奴隷制度

古代ギリシャのポリス(都市国家)社会の平均的市民は2~3名の家内奴隷を所有し、あるいは手工業の仕事場・鉱山で集団労働をさせる場合もありました。一方、後のローマほど大規模な奴隷制度はなかったようです。
奴隷になった人々は戦争捕虜、征服された異民族、または債務返済に困り自ら奴隷となった人などです。
ギリシャの奴隷という身分は絶対的ではなく、主人の意向で解放される場合もあり、その場合は在留外国人の扱いで自由になることが出来ました。
彼ら奴隷は高級品でした。価値にして、およそ4人家族を1年養える金額だとされています。

古代ローマもまた奴隷社会でしたが、ギリシャとはいくらか様子が異なっています。
ローマにおいては家内奴隷よりも、ラティフンディアと呼ばれる大農園で働く奴隷が大多数を占めていました。
こうした奴隷労働力はローマの海外戦争により多くの捕虜奴隷が流入、それに従って可能となりました。
今までの奴隷は高価なものでしたが、ローマ後期まではそうではなく、極めて安かったそうです。

 奴隷は急流のように流れ込んだ。前177年、一挙に四万のサルデーニャ人が奴隷としてローマに連れてこられ、その十年後、エペイロス人五万が同じ運命に陥る。
 ローマ軍団は今やギリシアを超え、あるいはアジア、あるいはドナウ河流域、はてはロシアとの境界にまで進入しつつあったが、奴隷商人はその軍旗のあとをついて歩いた。
 いくらでも奴隷を確保できたから、デロス島の国際奴隷市場で一万人の奴隷が一度に売買されるくらいは日常茶飯事となり、値段も一人当たり五〇〇円程度まで下がった。

モンタネッリ/藤沢道郎訳『ローマの歴史』中公文庫 p.161

500円という衝撃の値段ですが、需要と供給によって値がつくのなら極めて合理的な結果でもあります。
この安い人手により、大農園を経営することが可能となり、そして国の食糧事情を支えていきます。
こうした形態はローマの拡大期から停滞期に移行するまで続きました。

停滞期に入ると、安い人材が不足していきます。このような時代の流れの中で生まれたのが農奴の存在です。
農奴の起源はこの時代、自由身分を失ったコロヌスという没落農民たちにあります。
奴隷はこの時期を境に、また高価なものへと戻っていきます。供給は減少し、価格が上昇していきました。
その結果として大土地所有者が雇い入れたのが没落農民である、ラティフンディアはコロナートゥスという形態へと移り変わっていきます。
コロヌスは移動を禁止され、自由を奪われたものの、奴隷よりは諸権利を持っていました。
一方で納税の義務などはあり、また人格を尊重されることは稀で、時には土地と共に売買や譲渡の対象となりました。